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平和展・2つの講話会へ

講演・講習・説明会・勉強会、みたいなの
08 /06 2017
8/6 平和展の講話会

上越市で毎年開催されている平和展。いつもなら2週間程の開催期間だが、今年はどうしたことか40日近い開催期間となっている。
講話会も広島被爆体験者の方だけのものではなく「上越での戦争」に関連した話も予定されている。

広島の被爆体験を話される寺本さんは7月に、上越の戦争・直江津捕虜収容所/名立機雷爆発事件については8月に…ということで、この日開催された上越にかかわりのある「戦争」の話を聞きに行ってきた。
上越の戦争にまつわる出来事の中で、代表的な直江津の捕虜収容所と名立の機雷爆発事件、どちらも知ってはいるけれど知らないことの方が多いからな。

開催が10時~となっていたので、チャリぶっ飛ばして会場の図書館に着いた時は一気に汗が噴出した状態だったのだが、実際のところ図書館施設そのものがオープンするのが10時なので講話会の開始は10時15分だったという。
ならもう少し速度落としてもよかったかも(笑)
まあおかげで開始の頃には汗が噴出すのも少し落ち着いてもいたが。

午前の部は
上越日豪協会会長 近藤芳一さんによる「直江津捕虜収容所と平和記念公園」。
はじまるよ
はじまりますー
近藤氏
近藤氏

直江津捕虜収容所。
昭和17年12月に開設。
300人のオーストラリア兵が収容される。
過酷な労働・環境の中60人の捕虜が亡くなる。
その後もイギリス・オランダ・アメリカなどの捕虜が700人ほど収容される。

終戦後、当時の収容所職員15人が戦争裁判でその責任を問われ、8人が処刑された。

という収容所なのである。
日記
オーストラリア兵の日記。しかしこれは日本軍の配給物なので検閲もあり表向きの良いことしか書かれていない。

家族に「僕は元気です」と送ったハガキの約一月後に亡くなった捕虜。
慣れない雪国の冬、悪化していく食糧事情や寒さもしのげない建物、そんな状況の中さらに過酷になっていく労働…
飢え、病気で斃れていく捕虜たち。

日本軍が兵士に叩き込んだこと
とはいっても
日本軍は死ぬことこそ最大の誉れと考えていた。
捕虜になって生きるより、生き恥をさらすより、死ねと。
そのため、各地で悲劇が起きるのだがそれは置いておく。

片やオーストラリアにも日本兵の捕虜収容所があった。
こちらは「死ぬことより生きること」が是。
相容れることのない2つの是。
収容所
そのため、捕虜収容所の日本兵は収容されても(自身と残された家族を慮り)偽名を使ったり、自決したりしていたそうだ。
そして、カウラの悲劇が起こる。

捕虜が増えたため、一部を別の収容所に移すことになり、それを知った日本兵捕虜たちは脱走を企てる。
昭和19年8月、1000人程の日本兵捕虜たちは自決のための脱走のために突撃する。
生きるための脱走ではなく死ぬための脱走。
この事件で日本兵は800人近く死傷し、オーストラリア兵も8人程の死傷者を出す。
脱走に成功した者たちも、その目的が自決なので、目的を達成してしまったのだろう。

という戦争の悲劇を経て、オーストラリア・カウラには日本人兵の墓地がある。
驚いたことにオーストラリアの人たちはこの墓地を日本の土地にしてくれたのだという。
しかし、偽名のままで永遠に肉親も故郷も分からない人もいるという。

戦争は終わり、時代も変わった。
しかし、だからといって、親を、兄弟を直江津捕虜収容所で亡くした人たちにとっては簡単に許せるものではない。
「戦争が悪い」だけでは遺族はやはり解決できない思いがあるだろう。

平成7年、かつての捕虜収容所跡地は平和を願う公園となった。
捕虜だったかつてのオーストラリア兵と、裁判で刑死した遺族がここで握手を交わした。
怒りと憎しみの先にある、和解。
以後上越日豪協会が設立され、直江津捕虜収容所での悲劇を語り継ぐとともに、両国の友好と世界の恒久平和への願いを発信している。。。

という内容だったが、その中でのカウラの悲劇について
「死ぬことが一番と教えられていたら、同じように相手に捕まったら、死ぬために逃げようと話を持ちかけられたら、あなたならどうする?」と問いかけがあったのだが、同じ問いをある中学での講話の中でしたらば拒否する(生きる)という意見が多い中、
でも、周りが賛成するという空気だったら、賛成してしまうかもしれないという意見もあったという。

日本人は空気読むというか同調圧力に乗ってしまうからねぇ・・・それがいい/悪いとは決め付けられないけど。
うーむ…

で、午前の部、終了。

蓮の花
ハスの花。

午後は
午後の部
中山冨士雄さんの「名立機雷爆破事件」。
中山さん
中山氏

名立機雷爆破事件。
昭和24年3月30日、沖から名立の浜に近づいてきた機雷を沖に押し戻そうとした海軍から復員した巡査が、その直前に岩に触れた機雷が大爆発を起こし巡査をはじめ、見に行った人たち63名が亡くなった。
説明
せっかく戦争からは帰ってきたのに、機雷で亡くなってしまった巡査も悲劇だが、この事件での更なる悲劇は、犠牲者に子供が多いことである。
今のような娯楽もそうあるわけではない時代、機雷が来た・それを押し戻すというある意味大イベントである、いくら大人が危ないからといっても(その大人も見に行っているのだし)興味しんしん、見に行ってしまうだろう。
そして当時は上の者が下の兄弟の子守をしていたため、幼児をおんぶしたまま見に行った子どももいる。

3つの石段から見ている大人と子供、そこに爆発が襲った。
機雷の爆発はストレートに見ているものたちを直撃した。
高田でもその音は焼山が、いや浅間山の爆発だといわれるほど轟いた、鋼鉄製の軍艦を沈めるほどの威力を持っている機雷。
至近距離にいた生身の人間などひとたまりもなかったことだろう。
そして、小学生36人、中学生7人、幼児13人、中学生以上7人が亡くなった。

講師の中山氏は、その時親の畑の手伝いで見に行けなかったために難を逃れたのだという。
時期的にジャガイモの植え付け時ということもあり、年長者は家の手伝いをしていることが多かったために難を逃れられたのかもしれない。
小学生で一番殉難したのは3年生。一番遊び盛りで親も「(手伝いならんし)遊んで来い」という頃だ。
そんな子たちが犠牲になってしまった。

戦争中ならいざ知らず、戦後4年の悲劇。
機雷の掃海作業が不十分だったために起こった事件。
この機雷はアメリカ製なのかソ連製なのかもわからない。連合国側は責任を逃れようと事件の原因究明を避けた。
占領下の一地方の事件など簡単に握りつぶされ、今もわからない。

そして遺族たちはこの殉難者たちの慰霊塔を建立し恒久平和を祈念しようとする。
寛延4年の名立くずれの供養塔と並んで記念碑(慰霊塔)が建てられることになった。
碑文は県民から公募したが結局名立中学の生徒のものが採用された。それは、

「碑銘  平和をまもる
碑文  一九四九年三月三十日
      ここ名立の海岸で
      機雷が爆発し
      六十三の尊いいのちが
      一瞬にほろびた
      罪のない他民族をころし
      祖国をあらした
      むごたらしい戦争の
      気の毒な犠牲者たちを
      なぐさめる道はただ一つ
      みんなが力をあわせて
      世界の平和をまもること
      ただこれ一つ」
というもの。

最後に中山氏の大事にしている一文を読み上げ、会は終了するのだが、
それはユネスコ憲章(前文)。
「戦争は心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなくてはならない」。

当時も今も、それは変わりなく。

講話会が終わってから平和展を見に行く。
捕虜収容所パネル
直江津捕虜収容所のパネル
位置
県内の捕虜収容所。新潟市の知ってる町にもあったのか…
破片
左は直江津空襲の破片、右が機雷の破片

ああ、やはり平和がいい。日常がいい。

平和展を出て、図書館への階段脇で見つけた。
サカキンさん
発酵の父、坂口謹一郎博士がデフォルメキャラになっている~
サカキンさんなんて名前になってる~(笑)

はすまつり中だしせっかくなので極楽橋を渡って行田の蓮を見てくることに。
行田のハスたち
ああー。「甲斐姫」も「行田古代蓮」ももうすっかり花が終わっていた…
八重蓮
蓮は八重のもあるんだね。

今日が8月6日というからではないが、どうか平和な時代が続きますように。


おまけ:
夜、近くで花火の音がする。見えないかなーと2階に上がって見てみる。
花火と月
月と花火
花火その2
花火。
あとからこの花火は上越妙高駅近くで開催されているオクトーバーフェストのエンディング花火ということを知った。
そういや今年はオクトーバーに行かなかったなぁ。プロースト!


それもこれも今の日本は平和だから。
どうかこの平和がずっとずっと続きますように。






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しー

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