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映画と演劇と

演劇・映画・舞台
04 /05 2014
4/5 映画と演劇ダブル鑑賞

今日は午前と午後に見ようと思うものがある。
まずは午前の部、リージョンプラザへ。
なんだかんだでギリギリになってしまったのだが、謙信公大橋渡ってP入れようといたら「成人式のため混雑」との立て看板。

ええーっ、今日は成人式なのか!
成人式なんて縁がまったくないし、全然頭になかったよ。やっべー!
それでもなんとか空いてた所に車を停め、会場にダッシュ。
リージョン前には式典を待ちながら着飾ってプチ同窓会となっているワカモノたち。
そんな写真を撮る余裕もなく2階へ。ふー、間に合った。

開催の挨拶のあと上映開始。
この映画のタイトルは「日本の青空3 渡されたバトン
巻町での原発建設を題材とした映画だ。
住民投票からの「反対」で事実上巻町はNoを突きつけたのは記憶に新しいが、そこまでの顛末をストーリー化したもの。

映画

巻の建設計画が昭和40年代前半から始まっていたことも軽い驚きだったのだが、巻町に限ったことではなく全国各地の過疎化が進んでいただろう町村にとって、「原発」というものはいくらでもお金が出てくる打ち出の小槌的なものだったのだろう。
「反対」しながら賠償金の値を吊り上げる人たち。それを「うまくやった」とうらやむ人たち。
お金が絡むと、もらってしまうと、もう反対の声は上げられなくなる。
そして地方独特の地縁という厄介なものもある。
賛成という方向のムラ社会のなかでは反対の声を上げたくても上げられないという風潮。
同じ家の中でも、家族の中でもそれは同じ。
こじれていく人間関係。
この中で反対の声をあげるのはどんなに勇気のいったことだろう。どんな妨害を受けたことだろう。

作品中の推進派の父親は、娘の反対とスリーマイル・チェルノブイリの事故に次第に原発の安全性に疑問を抱き、
先祖から連綿と手渡しされてきた命というバトンを自分の子、そして自分の孫にきちんと手渡すために心を変えていく。
そして病室で手をつなぎ輪になる家族に看取られていく。

福島第一の事故でもう安全神話が通用しなくなったのは明白なのに、原発というものの性質が悪いところは「危険なものだ」ということは大人も子どもも分かっている(だから都会には作らない)のに「原発の経済的恩恵」を受けてきた・受けていることで賛成せざるを得ないという人が多数存在することなのだ。
原発がその地にあることで生活の糧を受けていた(いる)人にとっては、(危ないものだと分かっていても)なければ生きていけないもの、になっている。
生活が人質に取られている以上、危険だと分かっていながらも賛成推進しなければならない。
そこに「(他地方の)人々の生活の為」「経済活動発展の為」に地方がそんな我儘言っていいのかという‘人の情に訴える的な’圧力に加えて「値上げするよ」というまた別の圧力。
見えない圧力が人と人とのつながりを引きちぎってしまう。

人質となっている生活の糧よりも、もっと大きく深い生命の糧が人質となっているのに。

映画終わって周りを見れば……若い人いねーなー。
上映会場から出て階段を下りていけば、入口前にあれだけいた新成人たちは式典中なのか既に式典終えてそれぞれに散らばったのか、喫煙コーナーに数人いるだけだ。

できることならこのワカモノたちにこの映画を見てもらい「考えて」ほしいと思いながら会場をあとにした。

でも、全国向けの映画だから仕方がないんだろうが、もうちょっと新潟弁入れてほしかったてば。
巻の辺りだって蒲原弁使うってがに。新潟の言葉があんま出てこねかったのがちょっと残念らったて。
あと角海浜の泣き砂についても触れてほしかったな~
せっかくの海岸のシーンもあったのに。

途中バローにより、多分これが上越ではラストになるであろうイタリアンを昼食という名のお土産にして帰宅。
なんだが相方留守でやんの。


そして午後はチャリで高田小町。
鈴木一功さんのひとり芝居「べっかんこ鬼」を見るのだー。

演劇
さねとうあきら氏のこの作品はいろいろな劇団で上演されている。
俳優・鈴木一功氏がどのようにこの作品を1人で演じるのかどきどきわくわく。

会場受付ではTさんと、会場に入ってみればダブルKさん(笑)とばったり。
Kさんたちの間に座らせてもらうことに。間に割り込んでごめんなさい<(_ _)>

さあはじまるぞ。

舞台

鬼の世界の中でも異形の「べっかんこ鬼」は仲間の鬼だけではなく山の母にも時に笑われる孤独な鬼。
ある日べっかんこ鬼は母親の墓参りに来た里の盲目の娘・ユキと出会う。
盲目ゆえに一人ぼっちのユキは母親の墓に話しかける。「もう里には戻りたくない」と。

それを聞いていたべっかんこ鬼、ユキの持ってきた墓前の供え物に手を出してしまったのがばれたこともあり、ユキをさらってしまうのだった。
最初は嘆き悲しんでいたユキだったが次第に心を開いていく。

山の母は言う。「山のものと里のものは一緒にはなれない」。

それでもべっかんこ鬼とユキはなかよく暮らしていたのだが、盲目のユキは「おまえさまの姿が、顔が見られないのがくやしい」と口にするようになる。
ユキの願いを叶えようと、山の母から聞いた植物を探しにいく。しかしその植物は採ったものの命と願いをひきかえにするという。
その植物を見つけこれでユキの目が見えると喜ぶべっかんこ鬼の背に、娘を奪われた父親の鉄砲。

撃たれながらも必死でユキの待つ家に帰るべっかんこ鬼。
山の母の言うとおりにその植物をユキの目に…
……ユキの目に映ったものは、初めて見るべっかんこ鬼の顔は、
血まみれのべっかんこ鬼の笑顔。そして最期の顔。

ユキは父親に向かって叫ぶ。「おまえさんなど知らない。おまえさんの方が鬼だ!」

そして…



「異」なるが故、回りから疎外される孤独。
山と里の境界、そこにはかつて確かに結界があり踏みこんではならないという掟があった。
踏みこんだ時の約束ごと、それが「絶対」だった頃。
どちらも「なにものにも換えがたい大事な何か」を捨てねばならないという厳しい約束。
そんな時代は確かにあった。もう人々は忘れてしまったかもしれないが。

この哀しい物語を鈴木さんは、舞台の畳をどすんどすんと踏み鳴らしたり跳んだりしながら語り、演じていく。
その動きもだが表情もすごい。
べっかんこ鬼であり山の母でありユキであり…見事だ。すごい迫力。
舞台セットがあるわけでもない、畳敷きだけというシンプルな舞台なのにすっかりその世界に引き込まれてしまった。
べっかんこ鬼とユキの最後のシーン、お互いの心情を思うと涙。

最後の舞台挨拶で、今朝報じられていた蟹江敬三氏の訃報に触れ感極まる鈴木さんにまたもらい涙。
当時の無名の頃、演劇という夢を抱きながら共に時間を過ごした鈴木さんにとってこの訃報はどれだけ残念だったことだろう。

舞台終わって小町で余韻に浸っていたら会場から出てこられた鈴木さん。
少しお話させていただいたが蟹江氏の話題に触れたとき、涙を抑えるのに必死の蟹江氏好きの自分。
こちらのことなんて知らないそんな見ず知らずの人がそこで涙を流したらやっぱり引くよね(^^;

写真撮らせていただきました(本人承認済み)
ありがとうございましたー
凄い舞台をありがとうございました。おつかれさまでした!

午前午後と映画と舞台をたっぷり楽しんだ土曜日でした。ちゃんちゃん。
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しー

好き勝手に、
「今、を楽しめ」。


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